2006年09月21日

人物研究ーヨハネ

ヨハネは人名。ヘブライ語で「主は恵み深い」を意味するヨーハーナーンが元の形とされるが、ギリシア語ではIóannés (イオーアンネース。ただし中世以降の発音はヨアニス。日本では慣用形でヨハネス)、ラテン語ではJohannes(ヨハネス)、日本語ではヨハネと呼ぶ慣例である。この名は英語でJohn(ジョン)、フランス語でJean(ジャン)、スペイン語でJuan(フアン)、ポルトガル語でJoão(ジョアン)、ドイツ語でヨハネス(省略形でハンスまたはヨハン)、ロシア語でИван(Ivan, イヴァン)、イタリア語でGiovanni (ジョヴァンニ)、ポーランド語・チェコ語・オランダ語・デンマーク語などでJan(ヤン)になるが、いずれも各国のキリスト教徒によって非常に好まれる男子の名である。

使徒ヨハネ(しと-)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。洗礼者ヨハネと区別するために特に「使徒ヨハネ」と呼んだり、ゼベダイの子ヨハネ、福音記者ヨハネと呼ぶこともある。また神学者ヨハネとも呼ばれる。
福音記者ヨハネ(エル・グレコ、)ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていたが、ナザレのイエスと出会い、その最初の弟子の一人となった。ペトロ、兄弟ヤコブとともに特に地位の高い弟子とされ、イエスの変容の場面や、ゲッセマネにおけるイエス最後の祈りの場面では、彼ら三人だけが伴われている。ルカによる福音書ではイエスから最後の晩餐の準備をペトロとヨハネの2人が仰せつかっている(ルカ22:8)。

ヨハネによる福音書ではイエスが十字架にかけられたときも弟子としてただ一人「愛する弟子」が十字架の下にいたと書かれている(ヨハネ19:26)。このためキリスト磔刑図においては、伝統的にイエスの母マリアとヨハネを左右に配する構図が存在する。

また、ヨハネ福音書ではイエスの墓が空であることを聞いてペトロとかけつけ、真っ先に墓にたどりついたのもこの弟子であり、伝統的に使徒ヨハネのことだと信じられている。これについては「イエスの愛しておられた弟子」の項を参照のこと。

ヨハネはエルサレム教団においてペトロとともに指導的立場にあった(使徒言行録3:1など)。

古い伝承では使徒たちの中で唯一殉教せず、パトモス島で晩年を過ごし、福音書や黙示録を記した(ヨハネ黙1:9)。また、イエスの母マリアを連れエフェソに移り住み、そこで没したという。アトス山の修道院を開いたのは、ヨハネに伴われたイエスの母マリアであるとする伝説もある。

教会では伝統的には『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙一』、『ヨハネの手紙二』、『ヨハネの手紙三』、『ヨハネの黙示録』が使徒ヨハネによって書かれたとされてきたが、近代以降の聖書学はそのような見解を支持していない。 ヨハネ文書の項を参照のこと。

ヨハネおよびヨハネの福音書はしばしば鷲のシンボルであらわされる。これは『エゼキエル書』1:10に登場する四つの生き物に由来し、それぞれ四人の福音記者と福音書にあてはめられている。

洗礼者ヨハネ(せんれいしゃ―)は新約聖書に登場する古代ユダヤの宗教家、預言者。個人の改心を訴え、ヨルダン川で洗礼を授けた。『ルカによる福音書』によれば父は祭司ザカリア、母はエリザベト。使徒ヨハネとは別人である。バプテスマのヨハネ、洗者ヨハネとも。
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人物研究

アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)

AugustineLateran.jpg  Saint_Augustine_of_Hippo.jpg古代キリスト教の神学者、哲学者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。
アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカと異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステに生まれた。若い頃から弁論術の勉強をし、まずタガステに近いカルタゴ、のちにイタリアで弁論術を学ぶ。キリスト教に回心する前は、一時期マニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズムを知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。

当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに行き、更にその北に位置するミラノで弁論術の教師をするうち、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって洗礼を受けキリスト教徒となった。

彼は母モニカの死後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を行ったが、この時に彼が定めた規則はアウグスティヌスの戒則と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった。(聖アウグスチノ修道会はアウグスティヌスの定めた会則を元に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である。)彼は391年北アフリカの都市ヒッポの教会の司祭に、更に396年には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けた。

430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日とあわせるように古代思想の巨人はこの世を去った。


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2006年09月20日

イスラム教

イスラム教(イスラムきょう)(アラビア語: الإسلام; al-islām) は、アッラーフ(アラビア語:Allāh)が唯一の神であることを信じ、神が最後の預言者であるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフを通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ従う一神教である。

この教えの名は、アラビア語では「身を委ねること」「神に帰依すること」を意味するイスラームと呼ばれ、これに帰依した者をムスリム(アラビア語:مسلم muslim)という。日本などの漢字文化圏では、古くは「回教」と呼ばれることがあったが、現在はあまり用いられていない。

六信・五行
ムスリムは六信として次のものを信ずるように定められている。
神(アッラーフ)
天使(マラーイカ)
啓典(キターブ)
使徒(ラスール)
来世(アーヒラ)
定命(カダル)


また五行として次の行動を取るよう定められている。
信仰告白(シャハーダ)
礼拝(サラー)
喜捨(ザカート)
断食(サウム)
巡礼(ハッジ)

五行に聖戦(ジハード)を加えようと言う動きもある。



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2006年09月19日

尊敬する人物

John_Calvin.jpg

ジャン・カルヴァン(Jean Calvin 1509年7月10日 - 1564年5月27日カルヴィンとも)はルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並んで有名なフランス生まれのキリスト教宗教改革初期の指導者である。

彼の神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。プロテスタント教会のひとつ改革長老教会は彼の思想的流れを汲む教会である。

フランス・ピカルディー地方のノワヨン生まれ。法律、神学を学び、人文主義的な教養を身に付けた。セネカの『寛容について』を翻訳し、1532年パリで刊行。1533年頃に、突然の回心を経験したという。

1534年、パリで檄文事件が起こりプロテスタントへの弾圧が激しくなり、その前後から亡命生活になった。 1536年3月、バーゼルで『キリスト教綱要』(初版本、ラテン語)を刊行。この本は広く読まれ、その名を世に知られた。

カルヴァンは名うての論争家で、論敵との議論の必要性から『キリスト教綱要』も5度にわたって改訂・増補され、1559年出版の最終版は初版本(1巻本)の数倍もの分量になった。1541年にはフランス語版が刊行された。
同じ1536年、旅行中に偶々滞在したジュネーヴ市で、牧師のギョーム=ファレルに要請され、同市の宗教改革に協力する。1538年、教会勢力の拡大を恐れた市当局によってファレルらと共に追放の憂き目を見るが、1541年、市民の懇請によって同市に戻る。以後30年近くにわたって、神権政治を行って同市の教会改革を強力に指導した。

厳格な統治を行い、市民の日常生活にも厳しい規律を求めた。1553年、神学者とされたミゲル・セルヴェート(Michael Servetus)を異端として生きながら火刑に処した。カルヴァンの時代は、永遠の命の救いということは信徒たちや自分自身の救いにも関わる重大事であり、誤った教えを信じて一歩間違ったら地獄行きという切迫感をもって受け止められていた。それは、当時のカトリック、プロテスタント共通の感覚であったため、教理の問題は命がけであった。また当時のジュネーブにおいては教会の法と世俗の法はほとんど変わらない位置づけであったので、現在の感覚からすれば異常とも思える火刑という行きすぎた行為に出たのであった。そのため、カルヴァンとしては、死ぬまでセルヴェの火刑を誤りと認めるわけにはいかなかったのである。しかし、当時から、セバスチャン・カステリオン(Sebastian Castellio)など反カトリック陣営もカルヴァンを非難し、このことを指して、宗教的不寛容ないし、裁きを神にゆだねなかったという意味でカルヴァン生涯最大の汚点という論者も絶えない。なお、ツヴァイクが、このテーマでカステリオンとカルヴァンの対決を扱った評伝『権力と戦う良心』を著している。また、ジュネーブの近くにあるセルヴェが火刑で苦しんだ教会には 「当時の誤謬は非難されるべきにもかかわらず、わたしたちの偉大なる改革者であるカルヴァンの従順で誠意ある後継者として、良心の自由に堅く立つ者として、また宗教改革と福音の真の理念に従って、われわれは、ここに贖罪の碑を建て続けるものである。1903年10月27日」と銘文の刻まれた贖罪の碑が建てられている。
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比較宗教-ラマダン

kabah02.jpg

ラマダーン (アラビア語: رمضان )はヒジュラ暦の第9月。日本ではラマダンともいう。

イスラム教徒の義務の一つである「断食(サウム)」では、この月の日の出から日没までのあいだ、飲食を絶つ。イスラム暦は純粋な太陰暦で、閏月による補正を行わないため、毎年10日程度遅れ、およそ37年で季節が一巡する。そのため「ムスリムは同じ季節のラマダンを人生で2度経験する」と言われる。今年は9月24日から10月23日です。

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